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日経ビジネスオンライン

2018/07/12

第122回コラム

燃料電池車を生んだホンダ基礎研究所の実力
技術経営――日本の強み・韓国の強み
ホンダジェットやASIMOは成功か失敗か?
2018年7月12日(木)
佐藤 登

 前回のコラム、「日産が開発凍結を宣言した燃料電池車の行方」では、ホンダにおいての燃料電池の研究開発は、基礎研究所として新たに発足した和光研究センターで1986年にスタートしたことを述べた。当時のホンダでの燃料電池の開発は、定置用を目的として出発し、1990年代初頭までは燃料電池車(FCV)用を目的としたものではなかった。
 1993年、米国カリフォルニア州のゼロエミッション車(ZEV)規制への対応に加えて、独ダイムラーや米ゼネラル・モーターズ(GM)の影響を少なからず受けて、定置型目的の燃料電池の研究開発は、FCV用に方向を転じた。そして30年の歳月をかけて、2016年3月にFCVの市販に漕ぎつけた。
 2014年12月に世界で初めて市販化したトヨタ自動車に遅れはしたものの、FCVへの転換は結果として正しい選択であった。もっとも先のコラムにも記したように、今後のFCVの普及については課題が山積しているのも事実である。

本田宗一郎の夢を乗せて
 そもそも、1986年に創設された和光研究センターのミッションは、ホンダにおける新事業を開拓するための革新的な研究を担うことにあった。それだけにハードルと難度の高い研究テーマを推進するプロジェクトが選定されたのである。
 その成果は様々な領域で具現化された。その最たるものが、ホンダの子会社であるホンダエアクラフトが事業化しているホンダジェットである。これも30年前に始めた基礎研究から事業化に至ったもので、現在の量産化はホンダのDNAを象徴したものである。創業者の本田宗一郎が残した言葉、「やがては空を飛びたい」に端を発している。
 1978年にホンダへ入社した筆者も、その創業者のメッセージは良く聞いていた。ジェットビジネス業界では明らかに後発であったが、その分、したたかに、かつ不屈の精神を持って基礎研究から事業化に結び付けたのである。途中での紆余曲折もあり、事業化を見送ろうと考える経営トップ(福井威夫社長の時代)に対して、現在のホンダエアクラフトの藤野道格社長は直談判したこともあった。長きに亘るホンダ開発陣の努力と同様に、経営陣の忍耐は賞賛されるべきであろう。

基礎研究所からの数々のアウトプット
 和光研究センターが成果として誇れるものはほかにもある。その一つは、ナビゲーションシステムだ。高橋常夫エグゼクティブ・チーフエンジニアが先導したもので、実用化に至るまでの研究開発の過程は、日本経済新聞で連載された「小説本田技研」でも採り上げられた。
 高橋氏は、本田技術研究所の中で筆者が尊敬する人物の一人である。常に新たな革新を追求する姿勢、しかし驕らず謙虚に、しかも客観的かつ冷静に物事を判断する洞察力を備えているからである。現在はNF回路設計ブロックの会長として活躍されている。
 高橋氏の経営戦略の実施により、ここ数年で同社は大幅に業績を拡大した。高橋氏が新たな会社で好業績をもたらせたのは、日本ではトップランナーとして開発を実現したナビゲーションシステムに携わり、実績を出した自信が根底にあるからだろう。
 一方、ホンダの3代目プレリュード(1987~1991年)には、量産乗用車では世界初となる機械式四輪操舵システム(4WS)が搭載された。この4WS機構は、後に和光研究センターでの走行制御機構の研究開発を更に加速させたエグゼクティブ・チーフエンジニアの佐野彰一氏とチーフエンジニアの古川修氏(2002年に芝浦工業大学の教授に転身)との開発成果である。全国発明表彰や内閣総理大臣賞を受賞してホンダの技術力の高さを世に問うことになった。
 筆者が感銘を受けたのは、米国自動車技術会(SAE)から4WS機構が表彰されたことであった。当時のSAEは、自動車業界の技術分野では最大の権威を誇示していた学会であったこともあり、ホンダの社内壁新聞に、この受賞が大きく報道された。これをきっかけに、この二人も筆者が尊敬する対象となった。

車載用電池研究の着手も
 筆者は1990年に和光研究センターに異動したが、研究テーマを探索していた同年9月、米国ZEV法規が発効した。ホンダに対しても大きな規制対応が迫られたこの時、和光研究センターで電気自動車(EV)用の電池、モーターなどの重要コンポーネントの研究開発がスタートした。
 誰が電池研究のリーダーを務めるかの議論がなされていた時に、先の佐野彰一氏が「錆と電池」という用語をホンダの中で発信してくれた。結局、以前に錆問題を電気化学的アプローチにより問題解決した筆者の実績が買われ、電池研究開発のリーダーを任されることになった。佐野氏の影響力が大きいことを実感した一幕であった。
 この研究開発は、全く何もなかったところから、人材を集めるなど、すなわちゼロベースからのスタートだった。設備としては、電池開発に必須な充放電電源システムや恒温恒湿槽、いわゆるチャンバーなどに投資した。
 基礎研究所で着手した電池研究の成果は、1993年には同社和光研究所へ全面移管した。そして本格的実用化を目標に、95年1月1日付で栃木研究所へと、組織と機能を全面的に移管した。その後、99年には車載用リチウムイオン電池(LIB)の研究開発も、筆者がプロジェクトとしてスタートさせた。しかし2002年頃になると、研究所の経営陣が「車載用としてのLIBは実用には至らない!」と発し、そこから研究開発の流れが大きく変わった。その発言を幾度となく否定し続けた筆者も限界を感じ、結局、2004年9月に韓国サムスンSDIの役員として転じた話は、本コラムでも記述した通りである。

ASIMOの二足歩行ロボット開発中止
 ASIMO(アシモ)の人型ロボットも和光研究センターの成果である。「人はなぜ二足歩行できるのか?」と問う人間研究からスタートし、これも30年近い研究開発のもとで実用化への可能性を提示している。
 1990年後半、ASIMOの研究室へ出向いた時は、今のASIMOよりは大きな体型で開発が進められており、ゆっくりと動いていたのを思い出す。当時の研究室を束ねていたのが先に登場した古川修室長、そしてプロジェクトリーダーとしての開発責任者は広瀬真人氏(後に研究職としてはトップの主席研究員に)であった。
 2000年に公式に発表したASIMOは、Advanced Step in Innovative Mobility(新時代へ進化した革新的移動性)の略である。開発の動機は手塚治虫の鉄腕アトムがヒントになっている。完成度の高さから世界から評価され話題となった。
 その後、ASIMOは三越デパート本店から、年収2000万円で契約社員としてスカウトされた。仕事は、来店するお客様に対してパフォーマンスを披露し、顧客誘導に繋げることであった。ここでは話題を提供したものの、2年目の契約更改には至らず、1年で解雇された。
 というのも、仕事をする時間が極端に短かったからである。当時はニッケル水素電池を搭載しており、ASIMOが活動できる時間は約15分、残りの時間は充電でお休みということだから、「何と仕事をしないロボットか!」ということでクビになってしまったのである。その後は電池開発も進み、今ではLIB搭載により、活動可能時間も4倍ほどに拡大している。
 国内はもとより、海外のあちこちでのパフォーマンスの演出で、世界に羽ばたくASIMOの認知度はかなり高まった。様々なイベントに借り出されるスター的存在にまで上り詰めた。しかし、本格的なビジネスモデルで仕事をする場の開拓には、なかなか至らなかったのである。
 本年6月末、ホンダがASIMOの開発を中止することが報じられた。ホンダの公式発表ではなかったものの、ASIMOという姿形の商品自体が実用化に至らなかったと言う意味では、事業化の失敗という評価になるかもしれない。
 しかし、長年の研究開発からは多くの知財や知見、ノウハウが培われた。6月29日の日本経済新聞でも紹介されているが、発展的解消と言う意味で社会に実際に貢献することを目標に、今後の開発が行われることになる。
 2011年3月11日の東日本大震災で起きた原発事故に対して、人間が中に入り込めないところへASIMOの技術が応用され内部の検査等で活躍した。ASIMOもこの活動には喜びを感じたことであろう。
 自動車業界において、電動化と自動運転は今や生命線の両輪となっている。その自動運転の開発に、ASIMOの開発に関わってきた複数のエンジニアが異動したとのことで、センサー技術や人工知能を応用できることになり、ホンダの自動運転の開発に拍車がかかることになろう。あるいは、リハビリ用の歩行訓練機器も開発されてきたが、その機能を一層高い次元で実現することにも貢献することになるだろう。

失敗事例も同様に
 一方で、和光研究センターでの失敗事例もある。現在、実用に供され、今後の社会にも多用されるパワー半導体のSiCは、三菱電機が30年もの歳月をかけて社会に送り出した。これに対抗するものとして、和光研究センターでのテーマとして、ガリウムヒ素(GaAs)系の研究開発に多大な投資を行った。結果としては残念ながら失敗に終わり、花咲くことはなかった。
 また、CIGS(銅-インジウム-ガリウム-セレナイド)化合物系太陽電池も、結果としては失敗の一例である。20年近い歳月をかけ、2006年にホンダソルテックとして事業化したところまでは良かったが、全世界的な参入企業の増加、中国企業の価格破壊主導を受けて、競争力を発揮できないまま14年に事業撤退した。
 基礎研究は長い道程を歩き走る。そこに必要な条件は、開発陣のチャレンジ精神と情熱、そして大いなる努力が必要だ。一方、経営陣としてはより高い次元から可能性を判断すると共に、リスクヘッジを同時進行しながら、冷静に判断できる姿勢も不可欠である。そしてその上で、最も重要な条件は、開発陣と経営陣間の密なコミュニケーションによる信頼関係を構築することにあろう。

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