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日経ビジネスオンライン

2014/01/13

第8回コラム

企業戦略に振り回される技術者
私がホンダを去った理由
2013年8月8日(木)  佐藤 登

 7月に入り、電動車両に関する開発を強化する動きが相次いでいる。例えば、トヨタ自動車は研究開発費を増加する一方で、米フォード・モーターとのハイブリッド車に関する提携を解消。ホンダは自前主義を捨て、米ゼネラル・モーターズ(GM)と燃料電池車の開発に踏み切るもようだ。日産自動車も電気自動車の訴求力を高めて販売を強化していくという。
 自動車大手各社が電動車両の研究開発に注力するのはなぜか。今後、環境配慮型の「エコカー」が主流となっていく中で、主導権を握りたいからだろう。電動車両の分野で、世界に先駆けて先行してきた日本の自動車メーカーにはその資質が十分にある。
 一方で、本命技術を見極める段階には至っていない。化石燃料が枯渇するとみられる将来に向けて勝ち残る技術は、電気自動車か燃料電池車か。現時点では、両技術共に課題が多いため、勝敗を決めるのは時期尚早だ。だからこそ自動車大手各社は全方位的に開発を進めつつある。まさに新商品が離陸する直前のカオス状態といえるだろう。
 これら電動車両の核となる部品である電池開発を例に見ても、これまで長い開発の歴史があった。本コラムの第6回では、ホンダで電動車両向け電池の研究開発部門を立ち上げた話に少し触れたが、その詳細を紹介したい。
上司がナトリウム硫黄電池を主張
 車載用電池の研究開発部門を軌道に乗せて、成果を出すために最も重要なのが、開発に着手すべき技術の選択だ。車載用電池の候補には、繰り返し充放電可能な鉛電池、ニッケル水素電池、リチウムイオン電池、ナトリウム硫黄(NaS)電池が存在する。性能だけでなく量産コストなどを見据えたうえで、技術を選ぶ戦略が必要だ。研究開発戦略は論理が問われるもので、ホンダ用語である勘と経験と度胸のいわゆる「KKD」で選択できるものではない。
 筆者自身、1990年に研究に取りかかる際に、最も頭を悩ませ決断に苦労したのが電池技術の選択だった。開発目的は、1998年にカリフォルニア州で実施される電気自動車販売義務化の法規に電池開発を間に合わせること。筆者は数ある候補の中からニッケル水素電池を研究する道を選んだ。
 もちろん独断で決めたわけではない。筆者は「LPL(ラージ・プロジェクト・リーダー)」を務めたが、研究開発戦略と実務推進に関わる上層部4人(役員研究員2人と取締役と常務それぞれ1人)と相談しながら進めていた。
 しかもホンダではニッケル水素電池の研究開発がすぐに始まったわけではなかった。他の組織では保険のため鉛電池の開発も進められようとしていた。さらに、基礎研究所の取締役がNaS電池を推していたのだ。フォードや独BMWがNaS電池の開発を加速させていたという背景もあったからだろう。
 確かに、NaS電池の性能は注目すべきレベルにはあったが、ある重大な欠点があった。「セパレーター」と呼ばれる正極と負極の2つの電極を隔離するための部材に、セラミック材料を使用する必要があったのだ。セラミック材料は分かりやすく言えば陶器のような焼き物。つまり、自動車のような激しい振動を伴えば焼き物に亀裂(クラック)が入ってしまい火災につながる恐れがあった。このため筆者は、「NaS電池は危険すぎるため、車載用電池としての開発に着手すべきではない」との主張を繰り返した。
 ニッケル水素電池を本命、鉛電池を保険に、一方のNaS電池は取締役をどうやって説得し開発しない方向にもっていこうかと考えていた1991年5月。筆者と取締役および開発メンバーの全5人は、イタリア・フィレンツェで開催された国際会議での講演に合わせて、NaS電池をBMWに供給していた独ABBを訪問した。意見交換すると共にNaS電池を搭載したBMW製試作車の電気自動車に試乗。完成度は高く実用化の可能性は感じたものの、信頼性に対する不安は解消されなかった。
 その後、350℃で作動するNaS電池の扱いの難しさ、安全性に対する懸念を整理し、ホンダ内では開発をしない方向で、但し、開発の進捗状況は随時監視をしていくことで取締役を説得し、開発テーマの絞り込みを図っていった。
 とすると、ニッケル水素電池の競合技術は鉛電池ということになる。その当時、発足した電気自動車開発の大プロジェクトにおける開発陣の会議の席上での私の表明。「先進電池であるニッケル水素電池の開発責任者のミッションは、ここにいる鉛電池開発のメンバーを失業させること」と啖呵を切った。
 ABB訪問から3年後の1994年夏頃、BMWとフォードがそれぞれ開発を進めていた電気自動車が火災事故を起こしたというニュースが世界中を駆け巡った。原因はもちろん、セパレーターに使用するセラミック材料の機械的強度不足だった。この事故を受けて、上記の2社は車載用NaS電池の開発を断念した。
 一方その頃、ホンダではニッケル水素電池の研究開発が着々と進んでいた。1993年には筆者の開発部隊が、基礎研究所から和光研究所の応用研究開発機能に組織改編され、新たな役員の下、ニッケル水素電池の実用化に向けた研究を加速させていった。
 NaS電池自体は車載用以外、すなわち定置型用途では問題はないはずと思っていた筆者も日本での火災事故に遭遇することで認識を新たにした。それは日本ガイシ(NGK)製のNaS電池が据え付けられていた高岳製作所小山工場で2010年2月に発生した火災事故と、2011年9月に同社製を組み込んでいた三菱マテリアル筑波製作所の火災事故であった。NaS電池の脆弱さが露呈した形だ。
米ベンチャーと激論
 もちろん、ニッケル水素電池は、ホンダが単独で開発できるものではなかった。電池メーカーとの共同研究プロジェクトを推進していった。具体的に研究開発を進めたのは、松下電器産業・松下電池工業(現・パナソニック)と米国のベンチャー企業・オボニック。
 日米2社と同時で研究開発を進めた背景には理由がある。ニッケル水素電池は負極に「水素吸蔵合金」と呼ばれる、文字通り化学反応に必要な水素を吸蔵する役割を担う合金の性能がカギとなる。両社が手がける水素吸蔵合金の種類は異なっており、どちらが車載用電池として適しているかを見極める意味があったのだ。
 だが、2社のうちオボニックとの共同開発はほどなく見切りをつけることになる。水素吸蔵合金そのものの特性評価などの議論を重ねる中で、同社の負極材料には実用化の道がないと判断できたからだ。
 1996年3月、筆者は上司の役員とともに米国に赴き、最後通告のつもりでオボニックのオーナーや幹部の前で技術発表を実施。筆者が訴えたのは、「オボニックの負極の特性は車載用電池に適していない。正極やセパレーター材料の特性も低く、大胆な材料変更を実施しなければ実用化の道はない」ということだった。
 技術説明を終了した途端、事件が起きた。オーナーを務めていたスタンフォード・オブジンスキー氏が、「佐藤の発表は人工的なデータばかりでインチキだ。GMもフォードも我々のニッケル水素電池は世界一と認めているのに佐藤だけがノーと言っている」とまくし立てたのだ。上司の役員と筆者は唖然として、これ以上の議論は意味がないと判断し、会議を中断させて帰国の途に付く羽目になった。
 2カ月後の5月、再びデータを積み重ねて説得すべく、上司の役員とともにオボニック本社に乗り込んだ。既にカリフォルニア州向けに販売する電気自動車に搭載する電池の仕様を確定しなければならない時期を迎えていた。
 前回と同様、オブジンスキー氏をはじめとする役員勢ぞろいの中、技術説明を開始。今回は、オブジンスキー氏の怒りに備えて先手を打った。説明の最後に、「神の前に誓って本日説明したデータに一切の偽りはない」と言い切ったのだ。オブジンスキー氏はただ苦笑いを浮かべていのが印象的だった。
 オボニックとは特許の絡みもあり、その後も研究開発は継続したものの実用化に至ることはなかった。一方で松下電池との研究開発プロジェクトは順調に進み、1997年5月に晴れてホンダは世界初(トヨタも同時だが)となるニッケル水素電池搭載の電気自動車「EV-PLUS」をカリフォルニア州に投入することに成功した。
 GMの鉛電池を搭載した電気自動車「EV1」は、その前の1996年に市場へ供給され、加速感で高い評価を得つつビジネスを始めていた。ところがそのEV1が、1999年には鉛電池が絡む火災事故を発生。充電時に発生する水素処理に不具合があったことで、同年に鉛電池車を回収し、代わってニッケル水素電池の適用に切り替えた経緯がある。
 結局、ホンダのニッケル水素電池の選択が正しかったこと、電池メーカーとの緻密な開発が実を結ぶことになったが、GMの事例でも明らかなように、ニッケル水素電池の地位は確実なものとなっていった。
ソニーとの協業が進んだが
 実際に電気自動車が公道を走り始めると、カリフォルニア州の大気資源局の考えも徐々に変わっていった。やはり、電気自動車は時期尚早という判断から法規の見直しが進んだ。これを受け、自動車大手の研究開発は、電気自動車からハイブリッド車へとシフトしていく。
 とはいえ、ホンダ社内で電気自動車の開発が中止になったわけではない。近距離移動や共同利用に特化した小型電気自動車(コミュータEV)の開発が進められた。小型電気自動車向けの電池開発では、当時のユアサ コーポレーション(現・ジーエス・ユアサ コーポレーション)が持つニッケル水素電池の正極材料特許に注目し、筆者が直接共同開発を申し入れた。
 同社との共同開発は実り、小型電気自動車向けの高性能ニッケル水素電池の実用化に目途を付けた。2004年には、表面技術協会からユアサと共同で技術賞をいただいた。
 一方、ハイブリッド車向けの電池開発については、ニッケル水素電池だけでなく、将来を見据えてリチウムイオン電池の開発にも着手。1999年に、車載用リチウムイオン電池のプロジェクトを本格的に立ち上げた。自社での研究を実施するものの、電池メーカーとの共同研究は外せないと考え、当時の三洋電機や日立製作所・新神戸電機との協業を進めていく。
 実際のところ、ホンダ社内でリチウムイオン電池の研究開発に着手したのは1995年である。協業関係にあった日産とソニーの関係が悪化したことで、ソニーとの共同研究を立ち上げたのだった。最初は電気自動車用としての円筒型品の研究開発に取り組み始めた。筆者自身、ニッケル水素電池の開発を経験していたこともあり、リチウムイオン電池の性能に魅力を感じながらも、NaS電池と同様に安全性確立に向けた技術開発の難易度の高さも実感していた。
 だが、ソニーとの協業はほどなく終わりを迎えた。1995年11月、福島県郡山市にある電池事業会社・ソニー・エナジー・テックのリチウムイオン電池製造ラインで火災事故が発生。消防の立ち入りや原因究明などで、ソニー側の開発責任者も対応に追われ、事故が終息するまでの数カ月間、車載用リチウムイオン電池の共同研究はいったん中断となった。
 火災事故が終息した後、ソニーとの車載用リチウムイオン電池の研究開発プロジェクトは再開。だが、1998年秋口にソニー側の開発責任者が筆者を尋ねてきた。開口一番、「経営トップの判断で、ホンダとの共同研究はできなくなった。申し訳ない」と説明されたのだった。
 筆者にとって研究プロジェクト中止の申し入れがあることは、寝耳に水。開発責任者に理由を尋ねると、「経営トップが『ソニーは人命に関わるリスクがある事業には着手しない』という判断を下したためです」との説明のみ。これにより、ソニーとの関係は終わったのだった。
 その後、ソニー自体も大型のリチウムイオン電池の開発から撤退。ソニーが現在も大型電池の事業を手がけないのはこうした背景があるが、意外に知られていない事実である。民生用電池を世界に先駆け1991年に量産を開始したソニーのリチウムイオン電池。そのソニーが電池事業を売却しようとしている。行き先が気になるところである。
社内で強力なライバルが台頭
 1999年当時、携帯電話などの民生機器向けのリチウムイオン電池は既に市民権を得ていたが、車載用を真剣に考える自動車メーカーや電池メーカーは少なかった。先に述べた通り、ホンダでもハイブリッド自動車にはニッケル水素電池の適用を決めていたほどだ。
 その一方で、ホンダで電動車両向けの電力源として電池ではなく、「キャパシター(大容量電気二重層コンデンサー)」と呼ばれるエネルギーデバイスの搭載が検討されていた。1999年末に市場へ供給されるハイブリッド車・インサイトへの適用に向けて、最終決断のぎりぎりまで開発は進められていた。しかし性能が上がらず見送られたのだった。
 話は前後するが、ホンダ社内で電動車両にキャパシターを適用する計画が進んでいた経緯を説明しよう。1995年の話になるが、ホンダの栃木研究所では役員と開発陣が電動車両に搭載する電力源の貯蔵に何を中心に開発すべきかの議論が進められていた。
 この中で、ある役員の発言がきっかけになり、キャパシターの研究開発にまい進していくことになった。発言の内容は「電池は日本に有力な専業メーカーが多く、ホンダが電池開発を実施しても差別化は困難。キャパシターは誰も手掛けていないから、ホンダで開発すれば差別化につなげられる」というものだ。
 役員の発言に対して反論が出ない中、筆者は異論を唱えた。「キャパシターは炭素表面に蓄えられる電荷エネルギーを利用するもの。いわば表面の2次元的なエネルギーを使うだけだ。これに対して電池は、電極活物質の粒子の中まで化学反応するので3次元的なエネルギーを利用できる。両者を比較しても、エネルギー密度は電池が10倍優れている。原理を超えることはできないはず」と。
 ここで思わぬ横やりが入る。直属の上司だった役員が筆者を見つめながら、「何を言っているんだ。それを克服するのが研究開発だろう」と一括したのだ。結局、キャパシターを強く否定する者は筆者以外に現れず、多勢に無勢となり、電池の研究開発は進めながらも、キャパシターに多大な経営資源を投じていくのである。
 その後、ホンダ社内でキャパシターの研究開発は「王道プロジェクト」として研究開発費と人員がかけられていった。1999年のハイブリッド車への搭載を目指していたものの、検討会議では毎回のようにエネルギー密度が思ったほど向上しないという報告ばかり。結局、「性能未達」ということでハイブリッド車への採用は見送られた。
 1999年の適用が見送られたキャパシタ―は、2001年発売予定の「シビック・ハイブリッド」の新車種に搭載する電力源として期待されていた。しかし、技術を見極める段階になった時点でも、キャパシターの性能は向上していなかった。結局、性能未達で再び採用は見送りとなり、王道プロジェクトも窮地に陥っていった。
 キャパシターが日の目を見たのは2002年。燃料電池車の試作車に、エネルギー回生とパワーアシスト機能の役割として搭載されたのだ。これを機に、キャパシターの研究開発は再び勢いを増していった。
 リチウムイオン電池のプロジェクトを運営していた筆者に対して、研究所のある専務が「佐藤さんもリチウムイオン電池の研究開発プロジェクトなんか畳んで、皆と一緒にキャパシターの開発に移行したら」と勧告したほどだ。もちろん、キャパシター技術の限界性とリチウムイオン電池の可能性を訴え丁重にお断りした。
自らの開発が窮地に
 2003年、キャパシターは本格事業化にあと一歩のところまで進み、ホンダエンジニアリングの中に生産工場まで構築されていた。筆者が読むリチウムイオン電池の将来性と実現性には自信があったものの、キャパシターに傾倒する社内の大きな動きを目の当たりにし、研究所での業務に意欲が失せていった。
 考え方の違うところで研究開発していてもストレスが溜まるばかり。これがきっかけとなり、ホンダから外へ出ることを模索するようになった。まず目指したのが大学教授。東北大学や東京大学の公募に申し込み、共に最終選考までこぎ着けたものの不採用に。だが、こうした経験が視野を拡大させた。最終的に2004年7月にホンダを退社し、9月に韓国サムスンSDI社へ移籍することになる。
 ここまでホンダの電池開発の経緯を紹介したが、重要なことは戦略を描き実行するかどうかを論拠に基づいて展開できるかだ。本質は自らのデータでなければ見えてこないし、データを正しく分析する力があってこそ説得力ある説明ができる。
 ベンチャー企業だったオボニックは特許ライセンスで収入は得たが、実用化では失敗、会社を売却し業界の中から消え去った。技術に誇りではなく驕りを持ってしまえば、他人の意見に耳を貸さなくなってしまう。同社の破綻に至る道は最初から作られていたとも言える。もっとも、オボニックの幹部には筆者の考えに賛同する者は少なからずいた。だが、オーナーの考えに反論できる術もなく、結局は会社を離れて行った。
 技術者として活動するには信念と魂が必要だ。とかく企業人であれば、このホンダの事例のようにキャパシターだと言われれば、電池に優位性があると思っている者でも「はい、わかりました」と返答。喜んでもいないのに「喜んでキャパシタープロジェクトに移ります」という技術者は多かった。
 こうした技術者を数多く見てきた。企業人だから仕方ない宿命かと横目で見ながら。しかし、出口の見えない開発に技術者としての時間を費やすのはもったいないことだ。リチウムイオン電池のような有力候補があるのに、キャパシターのプロジェクトに加わることはできないという信念との葛藤がある。
 燃料電池車の電源としてのキャパシターは、その後のカリフォルニア州の公道実験において、長い坂を上りきるために必要な絶対エネルギー容量の不足が露呈した。ホンダは2006年、燃料電池用電源としてのキャパシタ―を諦め、代わりに日立ビークルエナジーのリチウムイオン電池に切り替えた。
 同時にホンダはキャパシター事業から撤退。富士重工業や日産ディーゼルも同じ頃に同じ決断を下した。主電源としてのキャパシターには競争力がないことの証明に、何と10年もの長い歳月がかかったわけだ。
 筆者がホンダのキャパシター撤退を知ったのは、サムスンSDIの研究所で勤務していた時だ。「やはりそうか。自分の考えは間違ってなかった。魂や信念を持ち続けた甲斐はあった」と感じたものだ。
 現在、ホンダにおける重点テーマはハイブリッド車を主体とする電動車両の開発推進。2009年4月にはGSユアサとリチウムイオン電池事業のための共同出資会社「ブルーエナジー」を設立するまでに至っている。
 かつて同社とは、ニッケル水素電池の共同開発を行っていたことは前述したが、この共同開発が契機となって共同出資会社の設立にまで発展したのである。以前、キャパシターに従事した技術者の多くは、リチウムイオン電池の開発に向き合っている。
 リチウムイオン電池はホンダのみならず、全世界の自動車業界や電池業界でもコア技術に位置づけられている。その一方で、民生機器向けリチウムイオン電池の価格下落に苦しむ日本の電池各社にとって、車載向けは最後の砦と言える。もちろん、海外電池各社も車載用リチウムイオン電池への参入を虎視眈々と狙う。生き残りをかけた戦いの勝利に必要なものこそが、技術戦略であり技術経営なのだ。

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